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其の九:日本の美を生んだ概念の組み合わせ

秋山:それから概念の問題、組み合わせというのは本当に難しいです。とことん考えて、組み合わせて駄目なことのほうが多いけれど、良い組み合わせになった時は本当にいいんです。組み合わせた本人でさえ、惚れ惚れするような組み合わせ。ああこの人はこんなことを考える能力があるんだなと、気付いたときは感動100倍ですね。それは本当に美しいんですよ。


Nakahara Chuya(2012/12/22 20:12 JST)
Wikipediaより引用:
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/41/Nakahara_Chuya.jpg

文字でもそうで、例えば僕はよく学生に言うんですが、中原中也の詩集「山羊の歌」の中に「汚れつちまつた悲しみに・・・」という詩があります。「汚れつちまつた悲しみ」、「汚れ」と「悲しみ」を組み合わせ、それを過去形にして「しまった」というのはちょっとネガティブですが、この二つの要素を「汚れつちまつた」という組み合わせで表現しています。なんとも心を打つ、たった二つのシンプルな組み合わせで心が動く。


高村光太郎(2012/12/22 20:12 JST)
Wikipediaより引用:
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fc/
%E9%AB%98%E6%9D%91%E5%85%89%E5%A4%AA%E9%83%8E.jpg/180px-%E9%AB%98%E6%9D%91%E5%85%89%E5%A4%AA%E9%83%8E.jpg

高村光太郎は「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」これは僕の前に道がなくて、後に道が出来るというだけのことですが、組み合わされることで相当にイメージ力が出てきて、絵もぱっと頭に浮かびます。道がないところに独りで道を切り拓いていくイメージ、ジャングルの中でも想像出来るし、雪原の中でも想像出来る。この能力たるや、やはり詩として残るんだなあと思います。


Takuboku Ishikawa(2012/12/22 20:12 JST)
Wikipediaより引用:
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/cb/Takuboku_Ishikawa.jpg

また、石川啄木の詩集「一握の砂」の中に「我を愛する歌」という詩があります。そこでは「ぢっと」と「見る」を組み合わせている。なんで僕たちが「ぢっと」掌を見るのか?ちょっとした心がネガティブになった時にしんみりと見ることが美になってくる。悲しみから美に変わってくるこの美しさがあって、勇気を与えてくれるんです。


Miyazawa Kenji(2012/12/22 20:12 JST)
Wikipediaより引用:
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4d/Miyazawa_Kenji.jpg

最後にもう一つ紹介させてください。宮沢賢治の詩集「春と修羅」の中に「永訣の朝」という詩があります。その中に「あめゆじゆとてちけんじや」という表現があります。言葉の意味としては、「みぞれを取ってきてね」という事ですが、それを標準語ではなく、方言で表す事によって、なんとも言えないリアリティを作り出しています。標準語と方言の響きの違いによって心の中に強く響き渡る新鮮さがある。その組み合わせの発見が、ぼくたちに深みと感動を与えてくれる。

しみじみとしていく世界、これが侘びや寂びじゃないですか。そういうものを重要な生きる基準として人間は考えているんですよ。そうでなければ、人間は本なんて読まないし、絵も見ないし、お茶も飲まないし全く必要じゃないんです。

 

茶の湯の世界は全くそうです。例えば、野の一輪の花を摘んできて、茶室の一輪挿しに挿してみる。一方、ヨーロッパの人たちは絶対にそんなことはしない。多くの花をアレンンジして、花を豪華に見せる手法を取ります。ほら見ろ、綺麗だろう!と。薔薇の香りが直撃するような。(笑)「美しいだろう、綺麗だろう、セクシーだろう」って、言っているように見えるんです。でも茶の湯の世界では、早朝の三時に朝顔を取ってきて、四時とか五時にみんなでお茶をいただきながら、咲いていくところを愛でるわけです。

福井:なるほど。変化だとか日常のワンシーンをそういう美として捉えたり、感情が動く哀しみであったり、嬉しさ、美しいっていう感動、そこに何気なく気が付いているってこと自体が凄い能力なんだろうなって思います。ちゃんと物事を見極めていないと、そういうことが過ぎ去っていくものですから。

秋山:僕はよく学生に言われるんです。「先生はよく美しい言葉をいっぱい使いますね」。それはどういうことかっていうと人間という生きる動物がいたときに、どこを一番核にするか?というと僕は核を美ということに置いているんです。「美」というものがあって、科学も経済も政治もいろいろあるんだけど、最終的には「美」のところにいく。誰もが美学を持って生きています。政治家でさえも「俺は政治家としての美学があるんだ!」と喚いたりするでしょ。

福井:うーん、なるほど。

秋山:僕の美学はこれだ、私の美学は・・・と言って、哲学者も論じるじゃないですか。文学者だって同じです。皆、結局、経済学者だって「俺は皆を幸せにするんだ」って言うし、会社を持っている社長だって時々こうどなることがあるんです、「俺は・・・おまえらのために!」。(笑)そりゃ、美学です。

福井:あはははは!

秋山:様々な「美」があって、切腹するなんていうのもそうだし、その時に新渡戸稲造が言ったように、「日本人には、武士道というのがあるんだ」という美の見方もあります。当時は、腹を切るなんて何と野蛮な国だと思われた部分もあったのだけれど、腹を切るのは実は全く野蛮という見方で解釈されるものではなく、そこには「美」学があるんだと言って、それをロジカルに証明したんです。そこで世界中の人たちが、サムライは凄い!と考えるようになった。切腹だけでなく「桜が美しい、それも日本の美だ」。

それはどういうことかというと、桜の花が一輪、はらはらと落ちていく。そこでお酒を飲んでいると杯の中に入って、「あら浮いた!」なんて騒ぐ輩もいるけれど、それを美しいものとして愛でながら、黙ってお酒と一緒に飲んで、嬉しさは自分で獲得するんだ。例えば桜というのは薔薇のように匂いが強かったらね、エロティックな女になるけれど、そうではない、ほのかな薫りでこちらのほうが余程セクシーだ。これはやっぱり日本人の持っている美意識だというのを彼は言ってるんです。

福井:匂いですら・・・。

秋山:そうです。匂いですら、日本人の持っているものはあるんです。そこに侍の持っている美意識があって、その体現が腹を切るということになっていく。それはひとつの武士という社会の縮図なんですが、そういうものも、よくよく考えていくと美意識以外無いんです。

福井:なるほど。

秋山:美しく死んでいくんだ。

福井:「美」ですから、それは概念なのかなと思ったら、「美」とは概念じゃなくて。組み合わせたものを美しいって表現するだけのものであって、結局そこのバランスであったり・・・。まあ、僕らがよく感じるのは、例えばiPhoneなどであっても、機能性の美もあれば、デザインの美もあって・・・。そういったものには本当に心が動くんですよね。

秋山:ジョブズが講演の時に、「美しくなきゃだめだ」と言いました。彼もそういうところはよく分かっているんです。アメリカで彼らの時代はヒッピーが登場し、日本の禅の世界に新たな生き方を見つけ、日本にあこがれ、多くの人が影響を受けた。彼らは日本に来たかったんですよ。

福井:ほうほう。

秋山:日本が持っている西洋にない美意識、それが日本にあったから、みんなそれぞれ禅を学んだりした。あの美は日本にしかない、最後の美は日本で獲得しようと、それで芸術家の多くは日本に来たんです。柔道をやりながら、日本に来て、大画家になったりした人もいます。マンガを見てすら、美だと感じた人たちがヨーロッパにいたんですから。

福井:それを「美」だと捉えてくれているんですね。

秋山:でもね、やっぱり美しいものって・・・じゃあ僕が実験しようってみんなに言って、部屋を作りました。ここに助手たちを連れて、「頼むからこのテーブルには物を載せるな。びしっとしておけ、床に塵ひとつ落とすな、そしてガラスは綺麗に磨け。本棚もぴしーっとした状態にして、哲学書からきちんとした世界で並べろ」。と、やったんです。そうしたら、その部屋を大学中の会議で使わせてくれって。共通の会議室になったんです。

福井:ほお~っ!

秋山:みんなが来るわけ。そして、みんなちらかして帰っていく・・・。助手たちが綺麗にする。こういう静かで淀みなくきちんとした空間を作ってくれと。

福井:あぁ、なるほど。結局、茶室もそういうことなんですね。禅堂も、そうなんですね。禅堂も畳と壁しかない、だから「集中」出来る。


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