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秋山:ぼくは会議が嫌いなんです。価値のない発言をする人間が、30人も40人も集まっても何も出ないですから。


福井:反面、違う意見を持っている人がそばに居るほうがいいっていう考え方もあるじゃないですか。


秋山:それは1:1でしゃべるときですね。1:1だと反論が可能ですが、大人数だとすぐ混乱した意見が出て何が大事なのかを見失います。


福井:本質がないっていうことですね。でも確かに、いいアイデアって大勢じゃ出ないですよね。3人、多くても6人かなって思ってるんですけど。


秋山:そうですね。少ない方がいいですね。二人っていいですよ。脳と脳で伝わり合っているから。

ぼくがいつも重要だと考えているのは、集めていく努力をすること。ものをひたすら集める。やみくもに。集めるという行為は疲れるんですけど、そのときに「何でこんな馬鹿みたいなことをしているんだろう」って思うことが重要。

つまり、目的を見失わないように、何かが見えているようにするということなんです。「こんなことやる価値がない」という否定的なところまで行って初めて何かが見えてくるんです。そこまで見えてくるとまた、「いやそうでもないかもしれない」と思うんです。もう一度見ようとする勇気。そこに秘密があるんです。


福井:集めているときは気づかないということですか


秋山:そう。集めることに真剣で意識は無いが、何かを感じているんです。「もう一回見てみよう」と思って見てみると、秘密が一杯隠されていて面白いんです。そしてまた探し始めて、また「無駄だな」って思ってもう一回見てみる。すると、もっと深いものが見えて分かってくるんです。


福井:ぼくも、アイデアの種って表現しているものが、時間が経つと結びつき合うんですよね。集まっているときは、どれとどれが結びつくのか分からないんですけど、それが寝てるときなのかなんなのか、頭が勝手に結び付けるんです。おそらく探し出しているんでしょうね。


秋山:熟成するんですよね。ほっといて寝かせておけばいい。そして、またせっせと集めていく。でも、どんなに集めても集めきれないということがわかったんです。全部を集めることは絶対にできない。ところが、集めようという基準が重要な視点で、興味のあるものをなんでもいいから集めようとすることによって、その核が見えてくる。


福井:でも、無関係なところの種のほうがよかったりしますよね。


秋山:本人にはぜんぜん無関係ではないんですよ。そこにその人の美意識があるから。

「これはだめだ、これはいい」という基準値ができあがってるんです。その基準値があるからこそ、ものって集められるんですよね。そうでないと、闇雲に集めても、良いものは集まらない。その都度考えるんです。山のように考えながら集めて限界に達したとき、「馬鹿みたい」って思う。それでもまた集め始める。これを1年2年と繰り返すんです。

アイデアっていうのは、簡単にひらめくものだと思ったら大きな間違い。身体中にしみこんで、深くなって、それで何かの瞬間に初めて出てくる。普段から集めていないと、本当のアイデアって見つからない。そのかわり考えていればいっぱいでてくるじゃないですか。

でも、生涯のうち、一人の人間が出すいいアイデアって一つだけですね。その人の根本的なアイデア。そのたった一つの根本的なアイデアから派生してたくさんのバリエーションが生まれる。アイデアなんて一つしか出てこないなんて思ってるような人からは、いいアイデアは出てきません。根本的なアイデアとは何か、を見つけ出そうと。まさに福井さんとやろうとしてることだと思うんです。


福井:さっきも、目的がないとアイデアが出てこないという話。平和じゃないといけないと設定したものも、一つのアイデアかもしれないですよね。


秋山:そうですね。人は無関係なものは集められない。じゃあ何が関係あるものなのかと考えると、個人の深い部分にある。子供のときの衝撃的なこととか、母親との別れとか。自分では、どうすることもできない運命的なことを感じた時が大きいんです。

ぼくが以前長岡で展覧会をやったとき、小学校のときの先生がやってきたんです。朝一番で来るからと先生が言っていたんだけど、ラジオの取材で先生に会えなくて、先生は先に帰っちゃったんです。それがすごく残念で。ぼくにとっては先生に会うことのほうが大事だったのに。

ぼくの人生にとって非常に大事な出会いであった先生と再会する機会を失ったそのときを、今でも後悔してるんです。あとから聞いたら、もう先生は亡くなってしまっていた。しかしそういった嘆きにも近い大きな出来事から、1つのアイデアが浮かんだんです。ぼくに影響を与えてくれた先生の絵を全部集めようって。そうして考えてみるとそういう先生って、たいした人数はいなかった。しかしそれをどうやって集めようかを今考えているところなんです。

集めることによって、ぼく自身の絵が見えてくるんじゃないかって思うんです。ぼくが影響を受けた人たちの絵を集めて、展覧会を開きたいなって思ってるんです。自分自身が見えているようで見えていないから、それぞれの人の心の中を覗いて、そこからまた自分を見ると、ぼく自身の根本的な感性や価値が見えてくる可能性があるんじゃないかと思う。そうしたらそれはいいアイデアだなって思います。


福井:過去を思い返すと、今何が大事かって見えてきますもんね。


秋山:そうなんです。子供は理解してもらうために絵を描いたり、文章を書いたりしますよね。ぼくたちも、人から理解してもらいたいんです。分かってもらいたいから、あの手この手を使って、自分を理解してもらおうとするんです。

分析しなきゃいけないと思って、娘たちの絵を全部集めたんですよ。いつ描いた絵かを全部記録したんです。そして娘に、娘が一番最初に描いた絵を見せたら、それを娘自身が自分の部屋に飾っているんです。殴り描きの絵が始めで、次に円(まる)に点を二つうった顔。それが娘が描いた顔の原点だった。そこから派生して、お父さんの絵、お母さんの絵ができてきて、そのうち動物園の絵になって。しゃべれない分、それを伝えようと絵を描き始めるんです。


福井:それは、芸術家一家の血ですよね。


秋山:いや、これは人間全員がやるんです。紙と絵の始まりってそうなんです。動物もやりますけど、ゴリラは円(まる)の中に点を二つ入れられないんです。絵っていうのはコミュニケーションの道具で、子供がなぜ絵を描くかというと、お母さんに自分の感動を伝えたいんです。

お母さんは、その絵を見て共感してあげる。そうして分かり合ったときに、うれしさや喜び、つまりカタルシスがあるんです。表現の始まりってこういうことですよね。

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